休日にやりたいことがない。
子供の時は、ワクワクしていた。毎日が発見の連続だったから、1日も長かったのかもしれない。時間を長くしたいのなら、新しい、知らないことに挑戦することが、一番いいのかもしれない。中途半端とか、批判されることを恐れず、いろいろと興味のおもむくままに、かじってみる。それが、人生を太く長くする秘訣なのかなぁ、とか思ってみた。
Hiroshi Kamayatsu - Gaulois o Suttakoto ga Arukai - YouTube
この歌を思い出すのだ。
休日にやりたいことがない。
子供の時は、ワクワクしていた。毎日が発見の連続だったから、1日も長かったのかもしれない。時間を長くしたいのなら、新しい、知らないことに挑戦することが、一番いいのかもしれない。中途半端とか、批判されることを恐れず、いろいろと興味のおもむくままに、かじってみる。それが、人生を太く長くする秘訣なのかなぁ、とか思ってみた。
Hiroshi Kamayatsu - Gaulois o Suttakoto ga Arukai - YouTube
この歌を思い出すのだ。
シャケと大葉の混ぜ込みご飯
自分は断捨離が好きな人で、余計なものは要らないと考えているのだが、はたして彼女のプレゼントに何を贈ろうかと考えたのだった。
何にしていいかがわからない。
もし、自分が貰う方の立場だったら、「要らない」「消えて無くなるから食べ物がよい」ということだろう。
が、自分のことではないので、まあ、迷うのであった。女性のことは女性に任せようと思い、ママイクコというギフトショップで、かわいいギフト詰め合わせを買ったのであった。
よく、テレビなどのコマーシャルとか、店頭では「贈り物に最適」とか書いてあるのだが、人からものを貰ってうれしいのだろうか。売る方は、売れりゃあ後はどうでもいいのではないか。
それとも、そんなモノのが欲しくもない自分はやっぱり不適合者なのだろうか。こっちから贈りたい時にあげるよりも、相手がホントに欲しいときにあげるのが、相手にとって一番親切なのではないか、贈り物なんて所詮、贈る方の自己満足なのではないか。
そんなんで、みんなが何も買わなくなったら資本主義は死ぬだろうと思うが、別にオレは資本主義の維持のために生きたいとも思ってないのである。
つくづく自己チューなオレなのであった。
ブログをやっているが、なんでやっているのだろうか、とか考えることもある。自分の中では、実は文章を書く練習であったりもする。
自分は紙のノートに、いろいろと書きつけることもあるが、このブログとは内容が違っている。
つまり、読む相手が居ることを想定して書いているわけだ。不快な内容とかは基本的には避けたい、が何を書いても気に入らない人は気に入らないものだろう。
であるから、書いてある内容は、何でも書いて良いわけではない。ある一定のルールに基づいて書いているわけだ。
いろいろなブログがあるが、みんなすごいものだ。意外とみんな、ちゃんとルールを守って書いている。例えば実名は避けるとかだ。別に、何を入力してもエラーメッセージが出たりすることもないので、ある意味で高度な、世間の「空気を読む」技術が求められているとも言える。
実際は書いている人も居て、自分が知らないだけかな。世の中には、個人の悪口とか書きまくっている人も居るかも知れないね。けれども検索の上位に決して出ないから、気づかないだけかも知れないね。むしろ芸能人のツイッターのほうが誰だか分かってしまうことも多いから、大変かも知れないね。
まあ、そうやって、考えながら書くことも頭の体操にはいいかも知れないね。
ただ不思議なのは、自分は文章を書くのは好きなんだけど、おしゃべりは基本的に苦手だったりする。コミュニケーション能力には、文章力はあまり役に立たないかも知れないね。
なるほど、ブログとかツイッターとかは、案外話し下手の人に言論の場所を与えているという側面もあるのかも知れないね。
さて、やりたいようにやった30代が終わり、40代になった。
20代の頃は遊びたくて仕方がなかった。オタク的な趣味を見つけては、一通りかじった。アニメ、カメラ、電車、バスとかである。小さな行動力を駆使して、実際にいろいろやった。秋葉原にも実際、短い時期だが、通った。楽しかったと思う。
30代に入ると、徐々に遊びに対する欲求が減少し、オタク的な趣味にも力が入らなくなった。今さらカッコイイタイプの趣味を始めることもなく、散歩が趣味という、じじくさい人になった。
もともとのパワーが少ないのか面倒くさがりなのか知らんが、
仕事ぐらいしかなくなった。
食への関心ぐらいしかないが、別にグルメでもない。おなかに入れれば、だいたい何でも同じである。
たまに考える。
オレだけなのだろうか、と。
みんな同じようなものだろうが、聞かれたらまあ、一応話題として好きなことを答えたりしている。例えば、これがみんなに受けのいいような趣味だったら言う。けど、あまり受けの良くない趣味とかだったら言わないのではないだろうか。
スーモの人形を集めるのが好きとか、おっさんが言えないよなぁ。
よって、政治宗教カネ女オタクネタなどの話題を避けると、結局どーでもいいような話題しか残らない。
食い物の話が一番無難なのである。
完璧を目指す必要は無い。
この世は浮き世のような感じもしている。
あまり真剣になっても、いいことはない。
非難されても、それは相手が決めることなので、別に気にすることもない。
無理しないように、ただ生きる
自宅近くの海辺でお弁当を食べていた。
そうすると、海の鳥がよってきた。
とても近くまで来る。
人間を怖がっていない。
お弁当の焼きそばを分けると、ついばんだ。
しばらくすると、肩に乗ってきた。
カワ(・∀・)イイ!!やつだ
ご飯をあげると、指から白米をふんだくって、どっかにいっちゃった。
フレンドリーな、海辺の鳥であった(^_^)
素敵ななかまがぽぽぽぽ-ん!
けど、いうか、ヒマだし。
雑談しよう。
ナックルボーラーになりたい
野球で大切なのは投手であるのは、言うまでも無いことだ。その一球に賭ける情熱や、故障寸前まで、限界を超えて投げ続ける気迫が、多くの人々を魅了してきたのも事実であろう。
特に日本の完投主義は、最たる物だと思うが、自分が考えるに肉体の故障だけは避けなければならない。
メジャーリーグの、途中交代制度は、とても良い制度だと思う(選手の保護の観点から)
これは、私たちにも言えることなのかも知れない。瞬間的な頑張りは、周りを動かしたりもするが、継続できるかどうかは別問題だろう。
ほどほどに長続きしたほうが、個人が発揮できるエネルギーの総量としては圧倒的に多いのだ。
ナックルボーラーは、肩を痛めることが少ないため、昔から投手生命が長く、40代近くまで投げたそうである。
政府もワークライフバランスの話をしだした。まあ、将来の移民に向けて、国際標準に近づけるためだと思うけど。
雑談終わり
オレはラジオぐらいしか聴かない。
朝から仕事。終わったら、寝てしまう。
休みの日はジャスコに行って、材料買う。弁当のネタ作り、仕事の時の弁当のおかず作る。弁当はお年寄りと一緒に食う。
連休はない。休みの日より仕事の方がいい。休みも特にいらない。ちゃんと仕事してるし、世のため人のために張ってるし、文句言われる筋合いねえ。財産とか地位とか人脈とかいらねえ。
やりたいことが今のこと。なりたい姿が今の姿。やりたいことは全てやった。余計な物は特にいらない。毎日トーエイで買った同じ物着てる。なまんだぶですでにしあわせよ。
最近ヒップホップにはまっているので、こんな自己アピールを、早口でラップできたらかっこいいな!とか思った。
なに?ディスってんの?(言ってみたかった)
お酒を飲んでいない。
このあいだ、禁酒宣言をして、一日で失敗したが、今回は一週間続いている。
WHOも、飲酒規制の方針を掲げており、日本でもタバコのように、飲酒規制が徐々に始まることだろう。今のうちに早々と習慣を断ち切りたいのだ。
今のところ、体調の大きな変化は感じていない。禁酒すると、睡眠の質が上がるという。その分早起きして、散歩とか読書とか、自分を高める活動をしたいのだ。
飲酒習慣のある頃は、毎日9時に寝て、6時半とか8時半とか、仕事の直前まで寝ていたのだ。
睡眠時間が長すぎる。少しずつ短くして、有意義な活動をしたいのだ。
人生も後半なのだ。
彼女と老後についての話になった。自分と彼女の話には、老後とか老人に関するものが多い。子供がいないからかもしれない。
オレは心臓病なので、毎日薬を飲んでいるが、飲まなくなると死ぬ確率が高い。
彼女はそのことを「うらやましい」というのだ。
そして、オレも「ラッキー」と思っていたのであった。
現在の日本のような、星型の人口構造をしている国で、年を取っていくというのは、不安以外の何物でもない。団塊ジュニアの世代が年金を受け取る額は微々たるものとなり、開始年齢は大幅に遅れることになるだろう。
この間の文藝春秋の3月号に、知識人に尋ねる「安楽死・尊厳死」についてのアンケートがあり、興味深く読んだ。一昔前の読売新聞に憲法改正試案みたいのが載った時、非難轟々だったのだが、現実が追いついてきた。現政権もオリンピックに向けての準備と憲法改正を急いでいるが、時間の問題だろう。その次にこの「人間の死をどうするのか」という問題が挙がるのではないか、と予想している。その時期は2025年までの決着であろうと考えている(当たるだろう)。
もし、法制化されたら、老後を心配して若者が消費を抑えて、老後のための蓄財に走る必要もなくなるだろう。そこから、日本復活の突破口が切り開ける可能性がある。
多くの国民が、死や病から目をそらして逃げることなく、この問題に向き合っていかなければならない時期に来ているのだ。全ての人が、老いや病い、人間の狂気といった「老病苦」に、フィクションではなく「実際に自分の目で手で」触れてほしいものだ。
明るい未来は期待していないが、少なくとも不安を軽減するような施策を望む。