彼女は昨日は泊まっていった。彼女の希望通り、オレがピザを作り、満腹し。一緒に抱き合って寝ていた。別に恥ずかしいこととも思わないので正直に記述している。
朝になって、二人はまどろみの中で起き、オレが布団を片付けた。
いろいろなことを話していたが、主に、彼女の不平不満やグチであった。まあ、別に聞くのは構わないんだけれども、一種のアドバイスとして、オレのほうが話を振った。
「人生には意味は特にない」
この発言が彼女の逆鱗に触れたようだ。
急に怒り出し、険悪なムードになった。で、いきなり帰った。まあ、オレがクルマで送ってあげたけどね。
考察する
オレは、精神科で勤務した経験が長く、人間の感情(もちろんオレ自身も含む)に対して、客観的である。
あいつがイライラする。職場がイライラする。まあ、その対象を見つけて不機嫌になるのは「自分の選択」である。
たとえば、オレの考え方からすると、「不満がない人は、どのような環境にいても不満が発生しない」。なぜかというと、オレは自分の不満の感情というものを、「人のせい」にしないからだ。
機嫌が悪かったり、喜んだりしてたり、感情の起伏が激しいひとというのは、自分の感情というものが「他人やおこった出来事」という、自分のコントロールできない「他の要因」にゆだねていることが多いのだ。つまり、他罰的なのである。わかりやすく言うと「人のせい」にする人、なのである。
たとえると、どのような環境にいても、希望を見つける人は希望を見つけ出し、不平不満を見つける人は不平不満を見つけ出すものなのである。
いったい、機嫌の良い人と不機嫌な人の違いは何なのだろうか。同じ環境に置かれた二人の心理状態を決めるのは、「本人の思考回路」にほかならないのである。
人は、自分の感情というものを「自分で取捨選択できる」のである。
人間の感情というものは、セロトニンとか、ドパミンとか、アドレナリンとか、ノルアドレナリンなど、科学物資の増減でいくらでも変化するものなので、おそらく、自分が幸せに生きていきたいなら、
「自分の感情」というものを、客観的に眺める能力
が、必要なのである。
こんなこと、すでに研究されていて、その、自分の感情や置かれた状況を客観的に認識できる能力のことを「メタ認知」と呼んでいる。
あなたが、平穏で幸せな人生を送りたいなら「メタ認知」の能力を鍛えたら良いと思うし、波乱万丈の人生を望むなら、そんなことは学ばなくて良い。
人間は、それを「自分で選ぶことができる」
これね、精神科とかの医学用語で書いているつもりだけどさ、昔からちゃんとあるんだよ。その役目を果たしてきたのが「宗教」というものなのさ。
「宗教」というのは「心の科学」なんだよ。
宗教嫌いの現代人は、マルクス主義の犠牲者なんだよ(反論も多そうだなぁ)
上記の文章を読んでいると、「宗教バンザイ!」みたいに感じるだろうが、アンチテーゼとして、この動画を紹介する。
宗教というものは、現代人が警戒するように、大きなマインドコントロールパワーを有していることは否めない。
そこで、一つの判断基準となるのは、信仰する対象が、「人間」である宗教は避けたほうが良いだろうという考え方だ。
ある、特定の「人間」が信仰の対象になっている宗教というものは、道を踏み外す可能性を否定できないと思う。
なぜかというと、「人間は不完全」だからである。
それと、同じ意味で、たとえ尊敬する偉人や、身近なところで先輩とかがいたとしても、その人は善意でやったことが悪事に転落してしまう可能性もある、不完全な「人間」として、あくまで客観的に捉えたほうが、良いと、「私は」考える。
どう考えるかは「あなた」次第
おわり