家に帰ってきてから、またまた「食えなんだら食うな」という本を読む。
永平寺修行記のときもそうだったが、スラスラと読む。自分が興味があるからだろう。
ところで、オレのブログは現在の信心とか、思ったこととかが正直に書いてあるとは思うが、そもそも信心というものは、こうやって人に公開するものでもないはずであり、一応、オレの中では「匿名」なので書いているところもある。妙好人の人の本も読んだが、求道が凄まじくみんな「自分の一生」を賭けているので、読んでいても「オレはそこまでには至らないなぁ」という印象である。ただ、特に最近は仕事中でもなんでも一日中このことばっかり考えている感じではある。
ラジオなどを聞いていると、お坊さんの話として「最近はお念仏の声が聞こえてこなくなった」というのだけれど、オレはまだ「自然にお念仏」が出てくる域に達しておらず、とにかくお話を聞いたり、本を読んだり、新聞を読んだりする。そうすると、たしかに「ああ、ありがたい」とは思うようだ。で、感謝の意味で「意識して」お念仏している。昔は、そこまで信心している方が多かったのだろうと思う。
今日のお昼は「自然に」お念仏が出てきたので、少しは効いてきたのかな?とか思ったが(自分でも少しびっくりした)、そもそも「求道」というのも「自力」なのでは?という疑問も率直に湧いてくる。もっと広範囲の域で「自分が求道したい」と思わせているのも阿弥陀様の他力なのだろうと思う。自分の中では、「自分が念仏している」ではなく「阿弥陀様が言わせている」でいいのかな?(いいと思います)
オレは、御同朋の方がおらず、お坊様に質問したりもしないので(東京にいた頃には質問した。お坊様はちゃんと答えてくれた)、自分の信心が当たっているか、間違っているかを聞いてみたいところはある。
オレの実家は、もちろん浄土真宗ではなく、とくに母親はトートーメーの信者なので、問題が起こらなければいいのだけれど。沖縄では基本的にトートーメーの信者が多いだろうと思われるので、なかなか厳しい道のりではある。ただ、もう長い間、阿弥陀様のことを考えており、今更改宗は無理である。でも他宗に失礼なことはしない。
教えとか信心について発信することがいいことなのか、書いた時点でだめなのかすらわからないが、自分で言葉として書くことで、アタマの中でまとまる一面もあるので許してほしい。東京にいたときのお坊さんは「若い人はツイッターとかで発信してください」と言っていたので、悪いことではないのかな。よくわからないが、許してほしいと思います。
ただ、このブログに書いてあることは、全然当たっておらず、本当の信心には程遠いと思いますので、興味を持たれた方は直接お寺に行かれてくださいね。
おわり