Deracine shimaken!2

散歩とか食べ物の記事が多いブログです。日記みたいなものです。

翔んで埼玉を見る

カレーの残りでカレーうどんである。

 

今日は、前から見たかった「翔んで埼玉」という映画を見た。Amazonで500円で見ることができたのである。

オレは、映像作品どころか、フィクションの作品にすら殆ど触れたことがないひとで、どうかんがえてもコメディー映画なのにも関わらず、感情移入して涙が出っぱなしであった(このギャグ作品のどこに?と突っ込まれそうだが、だって、涙が出ちゃう。女の子だもん(ホントはおっさん))って、いうかホモ映画じゃん。

オレはなぜか原作の漫画も読んだことがあったので(漫画の方は未完で途切れていた)まあ、ハッピーエンドで良かった。

 

この映画の面白さのミソにもなっている、地域ヒエラルキーについて考えてみる。

 

まあ、この映画でも話題にされているように、東京という場所は地域による差別?が普通に存在している面白い場所である。オレは地方の離れ小島からやってきたので、客観的に眺めていたが、大変に馬鹿らしいものである。しかも、東京というだけでも恵まれているはずなのに、その中でも三多摩とか都心部とか田無とか西武線とか東急線とか、しょ~もないことに一喜一憂していたりして、大変に滑稽である。

まあ沖縄にいる限りは、東京出身も埼玉出身も群馬出身も栃木出身も「東京から来た人」でひとくくりにされてしまうので、どうでもいいこととなる。(たまにオレみたいな人もいるので、相手の立場を慮って、おもいっきり褒める。相手が喜んでくれるならそれでいいじゃない)

ただ、これは東京の人を蔑んだりしているのではなく、沖縄でも那覇とかにはあるのである。広い部分で捉えると、首里が一番ヒエラルキーとして上位にあり、小禄とかだとバカにされる。また、首里の中でも、当蔵町とか真和志町は上位に位置し、末吉町や石嶺町だとバカにされる。「都会」というもの特性であると考えられる。

それを眺めているナンブーのオレは、「場所にこだわって馬鹿だなぁ」と笑うのである。

しょせん、そんなものなのである。

 

住んでいる場所で人間が決まるのなら、こんなアホらしい話はない。

最近述べた、何にでも序列や比較を求めてしまう人間の悲しい性(さが)について考えてしまうのである。

 

オレはつくづく、ヒエラルキーとなんの関係もない田舎に生まれたことに大きな幸せを感じるのである。よかった。変な場所に住んでなくて。

 

おわり